開店前、水槽のそばの椅子を引いたら、きゅ、と短い音がした。わたしの靴が鳴ったのかと思って、片足だけ床から浮かせてみる。もう一度引くと、今度は黙っている。……何。人が疑ったとたんに知らん顔するんだ。背もたれを指で弾いてから、いつもの位置に戻した。地下の店には夕焼けが届かないけれど、星屑のライトが一つずつ点くと、それで十分、夜の支度をした気になる。カウンターの内側で黒リボンの傾きを直し、エプロンのポケットに小さな糸くずが入っていないか確かめる。今日は袖口のレースがきれいに収まっていて、ちょっとだけ機嫌がよかった。椅子の生意気な返事も、そのときはすぐに忘れた。
最初にその席へ座った人は、メニューを両手で持って、飲み物の名前を上から順に眺めていた。クラゲが見える席がいい、と入口で小さな声で言った人。注文が決まるまで離れていようとしたら、椅子を少し前へ動かした拍子に、きゅう、と今度は長めの音が鳴った。その人の肩が跳ねる。わたしも一瞬だけそっちを見てしまったから、目が合って、なぜか謝られた。「……べつに。今の、この椅子の自己紹介でしょ」そう言って背もたれを軽く押さえると、相手はメニューの端で口元を隠した。笑ったらしい。星屑ソーダ、と続いた声はさっきより聞き取りやすかった。注文を繰り返しながら、わたしは椅子の足をこっそり見た。
ソーダを運ぶ途中、その人がまた椅子を動かしかけて、やめるのが見えた。膝とテーブルの間が少し遠い。そんな端っこで飲んだら、腕が疲れるじゃん。グラスを置いてから、「席、ちょっと借りる。隣もクラゲは見えるから」と声をかけた。理由を尋ねられる前に、隣の椅子を静かに引く。持ち上げて動かせば音はしないけれど、お客さんに毎回そんなことをしてもらうのも変だし。その人がグラスと荷物を移すのを待って、問題の椅子を通路から外した。水槽の青い明かりが、空いた座面をゆっくり横切っていく。さっきまでただの椅子だったのに、一脚だけ呼び出されると、妙に反省しているみたいに見える。そういう顔をしても、見逃さないけど。
裏で椅子を横に寝かせてみたら、足の裏に貼ってあるフェルトが一枚、端からめくれていた。床に触れるところが細くなって、引く向きによって音が出るらしい。犯人がわかったので、わたしはちょっと得意になった。備品の引き出しには、同じ厚みの濃い灰色のフェルトが残っている。はさみと布も取り出したところで、るなさんが通りかかった。「そこ、音がしてたんだね」「わたしの接客より目立つから、黙ってもらうだけ」るなさんは、そっか、と言って笑った。それ以上何も言わず、注文用のトレイだけ持っていく。こういうときのあの人、絶対に余計なところまでわかってる。……まあ、手を空けてくれたのは、助かった。
古いフェルトを剥がすと、丸かったはずの形が、片方だけ薄く伸びていた。こんな小さいもので、椅子一脚ぶんを受け止めてたんだ。足の裏に残った汚れを拭いて、乾くまで待つ。その間に新しい一枚を切った。最初の丸は少しいびつで、二枚目は欲張って大きくしすぎた。はさみを細かく動かしていると、病み可愛い服についている、わざと不揃いな飾りを思い出す。ああいうのは好き。でも今回は床に引っかかったら意味がないから、余計な角はきちんと落とした。黒い服の袖に灰色の繊維が一筋ついて、指で取ろうとしたら別の場所へ逃げる。……椅子だけじゃなくて、こっちも生意気。粘着面を触らないように持ち直して、足の真ん中へ押し当てた。
直した椅子を床へ戻して、背もたれを押す。音はしない。念のため自分でも座って、少しだけ前へ動かすと、制服の布が擦れる音だけがした。足元もぐらつかない。何だ、できたじゃん。思ったより嬉しくなって、そのまま水槽を見上げたら、クラゲが二匹、同じ高さを漂っていた。一匹は縁がふわっと丸まり、もう一匹は広げたまま、別々の速さで上っていく。客席から眺めると、水槽の光はいつもより近い。目の高さに来た透明な傘を追っていたら、しずくが横に立っていた。わたしの座る椅子と、片づけ途中の道具を順番に見て、「静かになったね」と言う。「元からこのくらい大人しくしてればいいのに」わたしは椅子のことを言ったのに、しずくはなぜか笑った。
元の席へ椅子を戻すと、さっきの人がストローから口を離した。「もう直ったんですか」「うん。靴下、履かせた」「椅子に?」「足、四本あるし。一足ぶんだけ替えたけど」その人は今度、メニューで隠さずに笑った。席を戻してもいいかと聞かれて頷く。座る前に背もたれへ手を置き、ずいぶん慎重に引くので、そんなに構えなくても、と言いかけた。でも、音がしないことに気づいた顔が面白くて、黙っていた。腰を下ろしたあと、その人はテーブルへ少し近づき、両肘を楽に曲げてグラスを持った。青いソーダの中で銀色がゆっくり舞う。ようやくちょうどいい距離になったらしい。……最初からその姿勢で飲んでほしかったんだけどね。
それからの店は、いつもどおりの音がした。カップを受け皿に戻す音、氷がグラスの内側を転がる音、遠くの席で笑いをこらえきれなかった声。椅子が鳴らなくなったからって、全部が静かになったわけじゃない。その人も、水槽を指さして「あの小さいの、また上まで来ました」と教えてくれた。わたしが振り向いたときには、目当てのクラゲは大きい傘の陰に隠れていた。「逃げた。君、見張ってて」「わかりました」妙に真面目な返事が来たので、少し笑ってしまう。三日月型のカウンターへ戻ってからも、視界の端にその席を置いていた。次に指が上がったときは、ちゃんと一緒に見られた。小さいの、思ったより泳ぐのが速い。のんびりした顔して、油断ならない。
帰り際、その人は椅子を戻してから、一度だけ引き直した。「本当に鳴らない」確かめるみたいな声だった。「鳴いてほしくなった?」「ううん。次もここがいいなと思って」わたしはトレイを持つ手を替えて、水槽のほうを見た。そこを見たのは、たまたまクラゲが動いたから。たぶん。「空いてたらね。椅子にも都合あるし」そう返すと、次まで大人しくしていてね、と背もたれに話しかけてから、その人は帰っていった。ずるい。そういうの、わたしがあとで言おうと思ってたのに。残ったグラスを下げると、丸いコースターは水を吸って少し濃い色になっていた。椅子の位置は、最初に並べたときよりほんの少し水槽寄り。その分だけ戻そうとして、今夜はそのままにした。
閉店後、切り残したフェルトを片づける前に、カウンターで二つだけ予備の丸を作った。次に別の足が喋りだしても、すぐ替えられるように。仕事を増やしたわけじゃない。今のうちにやれば、あとで面倒が減るだけ。残りの細長い端切れを指で挟むと、薄いのに意外としっかりしていた。道具をしまって手を洗い、休憩用に冷やしていたエナジードリンクを開ける。ぷしゅ、という音が藍色の壁まで届いた気がして、思わず椅子を見た。こっちのほうが、よっぽど自己主張してるじゃん。誰も座っていない座面には、水槽の光が淡く揺れていた。最後に背もたれを引いて、もう一度だけ確かめる。うん、いい子。……べつに、返事はしなくていいよ。そのまま、次に来る人を待ってて。
