開店前、三日月のカウンターを拭いていたら、端に置いてある小物入れが妙に寂しく見えた。昨日までは気にならなかったのに、布を持つ手を止めたら、そこだけぽかんと口を開けてるみたいで。飾りの材料をしまった引き出しから、表が黒で裏が薄紫の折り紙を一枚出した。これ、前に見かけた、黒い襟から紫のレースがのぞく服と似てる。ああいう、ちょっと不機嫌そうで可愛いの、好き。紙の端を揃えて三角にして、爪の腹で真ん中を押した。何を作るかは、折りながら思い出せばいいと思ってた。…べつに、そんな大がかりな飾りにするつもりじゃないし。片手に乗るくらいのコウモリが一匹いれば、この隙間には十分でしょ。

ところが、覚えていたのは最初の三回くらいまで。左右を折ったところで、急に見知らぬ形になった。耳にするはずの角が下を向いて、翼は妙に短い。ひっくり返しても、どう見ても機嫌の悪い餃子。紙を睨んでいたら、ちょうど扉の鈴が鳴った。わたしはそれを小物入れの陰へ滑らせて、いつも通りに迎えた、つもり。「今の、何か隠した?」って、席についたきみに早速言われた。目ざとい。「まだ営業時間外の顔してたから。見なくていい」って返したら、きみは笑うより先に、不思議そうに首を傾げた。その仕草が悔しくて、結局、丸っこい失敗作を指先で押し出した。開店して最初に見せるものがこれって、どうなの。わたしが聞きたい。

きみの頼んだ三日月ラテを置くと、カップの白い縁のそばで、黒い紙の不格好さがいっそう目立った。「コウモリ、かな」と言われて、わたしは一応うなずいた。「疑問形にしなくていいから。まだ寝てるだけ」。きみが自分も折ってみたいと言うので、引き出しからもう一枚出した。ただしカップからは離して、乾いたところに。濡れた翼を直す仕事まで増えたら面倒だし。きみは袖を少し上げて、四つの角を順番に眺めていた。どこから始めるか迷っているみたいだったから、わたしは新しい紙を取って、黒い面を下に置いた。最初の一折りだけ、隣でゆっくりやってみせる。さっき失敗した人の実演だけど、そこは黙っててあげて。

きみは角と角を合わせたあと、まだ折り目をつけずに何度も持ち直した。「ちょっとずれてる」と、紙を目の高さまで上げる。わたしにはほとんどわからなかったけど、本人には大事件らしい。「机に置いたほうが逃げないよ」。端を指で押さえる場所を示すと、ようやく紙が三角になった。次は細い角を折り返す。ここでわたしも手が止まって、さっきの失敗作を広げることになった。黒い表面には白っぽい筋が何本も走っていて、ずいぶん迷ったのがばればれだった。きみがそれを見て、初めて声を出して笑った。「すずも、わからないんだ」。…その発見、そんなに嬉しい? わたしは紙の裏から一つずつ折り目をたどって、間違えた山を指先でつぶした。

原因は、翼にするところまで内側へ畳み込んでいたことだった。欲張って小さくしすぎたみたい。両端を外へ開いて、頭になる真ん中を少し下げると、やっと左右に翼が出た。折り返した縁には裏の薄紫が細く見える。これなら、まあ、わたしの好み。「そこ、もう一回」ときみが言ったので、片側を戻して見せた。今度はわたしの手元と同じ速さで、きみの指が動いた。紙の擦れる音が、二回ずつ聞こえた。片方の耳だけ妙に長くなったけど、きみはすぐには潰さなかった。「こっちを聞いてるみたい」。そんな解釈あるんだ。わたしは自分のコウモリをそちらへ向けて、「悪口言ってないよ」と、わざと小声で伝えておいた。

そこでラテの湯気がさっきより薄くなっているのに気づいた。わたしは折り紙から手を離して、カップのほうを目で示した。「先に飲みなよ。そいつ、逃げないから」。きみが取っ手を持つ間、わたしは別の席のグラスを下げた。藍色の壁に天井の星屑ライトが小さく映って、椅子の背にはラベンダーの光が細く落ちていた。水槽のクラゲは一度ふわりと縮んで、何も急いでいない顔で上がっていく。カウンターへ戻ると、きみはカップを両手で包んでいた。紙をつまんでいたときより、肩が少し下がってる。わたしも急いで続きを促さず、濡れたトレーを拭いた。乾いた布が銀色の縁を通る音のあとに、カップを置く小さな音がした。

飲み終わるころ、二匹はようやく立てる形になった。飾る場所を決めようと小物入れの縁に乗せたけど、わたしの一匹はすぐ前へ倒れた。頭が重いらしい。きみの一匹は立ったものの、わたしが横を通るだけで翼を震わせる。「飛びそう」と言われたから、「飛ばれたら閉店後に捜すのわたしなんだけど」と返して、置き場所を変えた。カウンターの奥、風の当たらない低い棚。そこに小さな無地の受け皿を置いて、二匹を並べる。底の折り目を少し開くと、わたしのもどうにか持ちこたえた。照明が背中から当たって、皿の上にもう一組、ぼんやりした翼ができた。正面より影のほうが立派なの、ちょっとずるい。でも、きみはそっちまで嬉しそうに見ていた。

「ちゃんとできるまで、ずっとやり直すと思ってた」と、きみが空のカップの向こうで言った。長い耳のほうを眺めながらだったので、紙の話なんだろうと思う。わたしは短い耳を直そうとしていた指を止めた。「直したいなら直せば。紙、まだあるし」。そう言ってから、今ある一匹をいじりすぎると、たぶん足元が潰れるなと思った。きみもそれに気づいたのか、触りかけた手を膝へ戻した。「これは、このままにする」。わたしは余った紙を引き出しへ戻した。一枚だけ角が引っかかって、また開け直す羽目になったけど。きみが笑うから、「今日はよく見てるね」って睨んでおいた。そんなに丁寧に観察しなくていいところまで、見られてる気がする。

帰り支度を始めたきみに、折ったものは持って帰っていいと言うと、少し考えてから「ここに置いてもいい?」と聞かれた。棚の二匹を、指では触らずに示して。「一匹だと、またあの顔になりそうだから」。あの顔って、最初の餃子のこと? わたしは受け皿を少し奥へ寄せた。「…べつに。場所、余ってるし」。きみは鞄を持ち上げてから、棚をもう一度見た。そういう間があると、こっちも何か言わなきゃいけない気になる。でも気の利いた言葉は出てこなかったので、翼に引っかかっていた小さな紙くずを取った。それだけで、きみはちゃんと安心したみたいだった。扉が閉じたあと、鈴の揺れが収まるまで、わたしは受け皿を持ったまま立っていた。

休憩でエナジードリンクの缶を開けたとき、指の腹にまだ紙を押していた感触が残っていた。いつもの甘い炭酸を一口飲んで、つい棚のほうを見てしまう。片づけの途中では、るなさんにも「あれ、すずが作ったの?」と聞かれた。「片方だけ」と答えたら、どっちか当てようともせず、少し笑って通り過ぎた。……あの顔、何か知ってそうで困る。閉店後、小物入れの陰に最初の失敗作が残っているのを見つけた。捨てようと持ち上げたけど、丸い体を指で広げたら、小さな翼がちゃんと二つ出てきた。これは棚へ連れていかず、わたしのロッカーに置いた。明日の支度で扉を開けたら、たぶん真っ先に目が合う。今度こそ笑わずにリボンを結べるかは、ちょっとわからない。