今日は開店前、エプロンの星の刺繍に糸くずがくっついていて、取ろうとしたら指のほうへ引っ越しちゃったの。ちっちゃな追いかけっこから始まった夜だったんだもんっ。ピンクのツインテールを結び直して、星型のヘアピンが二つとも留まっているのを確かめたら、準備完了っ。持ってきた古い携帯ゲーム機を、カウンターの内側の引き出しにしまった。クリーム色の本体は角が少しつるつるしていて、左のボタンだけ押す音が低いの。昨日、すずちゃんと交代で遊んだ続きを、休憩のときに進めるつもりだった。電源を切る前に見た赤い木の実が気になって、グラスを並べながらも、あそこへ跳ぶならどの足場かなって考えちゃった。

お店が開いてしばらくして、水槽に近い席へお客さまが一人いらっしゃったの。まどろみショコラをお持ちして、マシュマロがゆっくり傾くのを二人で見ていたら、「さっきの、それってゲーム機?」って。おしぼりを出すとき、開けた引き出しの中が見えたみたい。「そうっ、わたしの宝物なんだもんっ」と答えたら、お客さまの指がカップの取っ手から少し浮いた。昔、似たような形のもので遊んでいたけれど、もう操作を覚えていないんだって。どんなゲームか聞かれて、わたしはすぐ説明したくなった。でもショコラからまだ湯気が立っていたから、まずは温かいうちにどうぞって、お盆を胸の前に抱え直したの。

飲み終わったカップを下げて、ほかのお席へのお届けも落ち着いたころ、るなさんにひと声かけてゲーム機を持っていった。音を消して、飲み物から離れた乾いた場所へ置いたら、お客さまが椅子をちょっと寄せてくれたの。画面の中では、白いうさぎが雲の足場を渡って、赤い木の実を集めるんだよ。わたし、この木の実を勝手にいちごって呼んでるっ。実際は四角い赤がいくつか並んで、葉っぱが一つついているだけなんだけど、見ているとおなかがすくんだもんっ。左右に動く雲の先に一個だけ実があって、そこが昨日からの難所。「ここまで行けたら、景色が変わるはずなの」と見せると、お客さまはまず、うさぎを小さく左右に歩かせた。

最初の挑戦は、跳ぶボタンを押すのが早すぎて、雲が来る前にうさぎが落っこちちゃった。二回目は逆に待ちすぎて、雲のおしりをかすっただけ。わたしは横で「今っ、あっ、もうちょっと先っ!」って、つい声にも指にも力が入ったの。画面を隠さないように引っ込めた手が、空中で妙な形のまま止まっちゃった。お客さまは笑ってくれたけれど、次のボタンを押す前に、わたしの顔をちらっと見た。その瞬間、なんだか胸の中で小さな引っかかりができたの。わたし、応援しているつもりで、押すタイミングを全部決めようとしてたかも。お客さまの親指がボタンの上で迷っているのを見て、口まで出かかった「今」を、いったん飲み込んだ。

ちょうど別のお席の星屑ソーダができたので、ゲームは止めて、お届けに戻った。グラスの中の銀色が細い泡につかまって上がっていく。三日月型のカウンターを回ると、さっきのお客さまはゲーム機を置いて、クラゲを眺めていたの。藍色の壁に水槽の光が薄く揺れて、天井の星屑ライトとは違う速さで椅子の背をなぞっていた。厨房からスプーンの触れ合う音がして、誰かが小さく笑った。いつもならわたしも、その笑い声のほうへすぐ顔を向けるんだけど、今日はお盆を戻してから、一度だけ肩を下ろした。難所を越えてほしくて、わたしのほうが先に走り出していたんだね。ソーダを運ぶときは、ちゃんと相手の手元を見るのになあ。

カウンターにいたすずちゃんに「応援の声って、大きすぎてもだめなのかな」って聞いたら、布巾をたたみながら「声より、言う回数じゃない」って言われちゃった。うっ、よく見てるっ。「すずちゃん、昨日わたしにも教えるの我慢してた?」「……べつに。自分で見つけたほうが覚えるでしょ」。そこで初めて、昨日のことを思い出したの。一つ手前の崖で何度も落ちるわたしの横で、すずちゃんは答えを言わずに、雲の影を指で一度だけ示してくれた。雲そのものじゃなく、下の地面を横切る影。それを合図にしたら、指が慌てなくなったんだよね。わたしは布巾の角をそろえるすずちゃんにお礼を言って、今度は歩幅を少し小さくして、お客さまのお席へ戻った。

「もう一回、遊んでみる?」と聞くと、お客さまはうなずいて、両手で本体を持ち直した。わたしは「下の影も、ちょっと見てみてっ」とだけ伝えて、あとは隣で待ったの。雲が右へ行って、左へ帰ってくる。うさぎは動かず、長い耳だけがぴこっと揺れた。一往復目は見送り。二往復目も見送り。わたしの膝の上の指が勝手に跳びたがるから、両手をそっと重ねておいた。するとお客さまが「ここ、影が石の端にかかるときかな」とつぶやいた。わたしが使っていた合図とは、ほんの少し違う場所。でも、親指はもうわたしの顔を待っていなかった。「うんっ」と小さく返したら、三度目に雲が近づいたところで、ボタンの低い音が一つ鳴った。

うさぎは雲の真ん中に、すとんって乗った。わたし、息を吸ったまま止まっちゃったよ。そのまま雲に運ばれて、向こう岸が近くなったところでもう一度。白い足が地面に着いて、赤い木の実が画面の中から消えた。「取れた」とお客さまが言った直後、わたしも「取れたあっ!」って言いそうになって、最後のほうだけこっそり小さくしたの。代わりに胸の前で両手を握って、思いっきりにこにこしちゃった。お客さまは一度ゲーム機を机に置き、自分の親指を見てから、また画面を見た。「今の、ちゃんと自分で押せた」。その声を聞いたら、わたしが昨日、手前の崖を越えたときとは違うところが、ほわっと温かくなった。教えた手順じゃなくて、その一言を覚えておきたくなったんだもんっ。

先へ進むと、画面は薄紫の丘に変わった。遠くで丸い月が一つ浮かんで、地面には白い花が三つ並んでいたの。お客さまはうさぎを花の間に立たせて、「今日はここで休ませてあげようかな」って笑った。わたしは次の仕掛けまで見たかったけれど、この場所で止めるのもいいなって思ったよ。戻ってきた雲に乗らなくても、追いかけてくるものは何もない。「次も、この続きからできる?」と聞かれたので、残しておける場所を一緒に確かめて、うさぎがお花の隣にいる状態を保存した。最後のボタンはお客さまに押してもらったの。画面が暗くなったら、二人の顔の後ろに、天井の星が小さく映り込んだ。

お帰りのとき、お客さまは「指が覚えてたというより、今日覚え直せた感じがする」って教えてくれた。わたしは「じゃあ、次は新しい冒険の二日目だねっ」とお見送りしたの。階段のほうで足音が遠ざかってから、お席を拭いて、椅子を元の位置へ戻した。座面がいつもより少しだけ温かかった。るなさんが空いたカップを受け取って、「いい顔で帰っていったね」と、口元をちょっとゆるめてくれたんだよ。褒めてもらえた気がして、背筋がぴんって伸びちゃった。でもすぐに次のおしぼりを落としかけて、慌てて両手で受け止めたの。かっこよくうなずく練習も必要かもっ。引き出しへ戻すゲーム機の角を、親指で一度なでてからしまった。

休憩には、お楽しみの小さないちごパフェを作った。水槽のそばの丸いテーブルで、白いクリームに乗った赤いいちごを見たら、さっきの着地点が浮かんできたの。隣の乾いたところにゲーム機を置いて、あの花畑だけ、もう一度見せてもらった。うさぎはちゃんと待っていたよ。普段ならいちごを最後まで取っておくか迷うんだけど、今日は最初のひと口に決定っ。甘さのあとから酸っぱさが来て、思わず目を細めちゃった。お客さまが見つけた石の端、すずちゃんの短い助言、わたしが言わずにいられた一回分。日記に書いてみると、どれもちゃんと思い出せる。明日はまた元気いっぱいお迎えするよ。君がボタンを押すときには、その指先も見ていたいな。赤い実を取れた瞬間、今度は一緒に喜ぶための息を、ちゃんと残しておくんだもんっ。